2010年9月29日水曜日

渋谷バブル建築の変遷 [4/4]

2010 年 9 月 29 日
Posted by 辻香 /東京大学生産技術研究所村松研究室協力研究員

シブヤバブル文化史跡-宴の痕
都市が成熟を続けると、街は頻繁に更新されます。
そこには記憶も痕跡も何も残らないのかしら?などと思いながら思いにふけってみた。
都市の成熟期とりわけバブル期の80年代に焦点をあてて、まずは自分の記憶を元にひとつひとつ見つめてみたい。

◆ シブヤバブルディスコ文化史跡
バブル時代のスクランブル交差点の原風景は「DISCO Big Apple DISCO」のネオンが輝く峰岸ビルだった。(NOVAの看板の上にそのネオンはあったが、残念ながらその写真は無く、峰岸ビルの姿はこうだった)このビル内 8 階には「DISCO Big Apple」と渋谷宝塚劇場が入っていた。1999年にはQ-FRONTビルとなり、スクランブル交差点から見上げる風景は変わりました。2000年にはTSUTAYAが入り、ディスコのイメージであった渋谷から「映画/音楽文化渋谷」へと変化したのです。
「LA・SCALA」は、渋谷ジョイパックビル 3 階に入っていたディスコで、1992年ヒューマックスパビリオン(若林広幸)として姿を変えた。つまり、ディスコイメージだったその場所は、1 階にディズニーが入ったことで突如ワンダーランドへと変化した。
日本初のデザイナーズマンションと言われる「ビラシリーズ」にも、実はディスコが入っていたのをご存知ですか? 1964年、ライフスタイルの変化に敏感だったディベロッパーがその最初のプロジェクトとしてビラ・ビアンカを作りました。マンション自身の設計は堀田英二による。その建物に入っていたディスコがCLUB D。

◆ シブヤバブルアミューズメント文化史跡
「シブヤバブ建」と言えば大抵の人が思い浮かぶのが、警視庁渋谷警察署宇田川派出所(鈴木エドワード)。その周辺から円山町にかけてはみなさんご存知の通り「遊び場」が多い。Dr.ジーカンス、BEAM(ワークショップ)が建ってから90年後半まで、ディスコに変わるアミューズメントは何かとみんなが模索していた痕跡が伺えます。常に施設の使われ方が時代に合わせて変わることから、シブヤの脈々と流れる文化史を読み取ることが出来るのです。BEAMは、竣工当時から物販/飲食/イベントスペースとして活躍していますが、今は「ヨシモト∞ホール」となって渋谷に「お笑い」が入ってきました。


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みなさん!なんとなく出入りしている建築には、実に深いその街の歴史が刻み込まれています。
このblogやGOOGLE MAPを見て、是非是非「プレイス」パワーをご覧くださいな。

2011 年 2 月 5 日(土)〜 13 日(日)。私たちshibuya1000は、渋谷駅地下コンコース(主に新駅側)を中心に「都市を展示しちゃおう!」をモットーに展覧会ほかイベントなどを開催予定です!
日々blogやツイッターで渋谷のお祭りや私たちの行動がアップされているので、たまに訪れてみて下さいね。

僭越ながらshibuya1000メンバーを代表して、Google 根来様に、この様な機会をいただけましたこと、ここに感謝申し上げます。そしてフルサポートしてくださったワイデン+ケネディの石畠さん、村田さん。本当にありがとうございました!

2010年9月28日火曜日

渋谷バブル建築の変遷 [3/4]

2010 年 9 月 28 日
Posted by 辻香 /東京大学生産技術研究所村松研究室協力研究員

「ビババブル!」って言うと、必ず40代は微笑み意気投合。けれども一般論では「最悪の時代」「当時のツケが今回っている」と、まぁ、それはそれはあまりいい印象の時代ではありません。
が!渋谷を舞台にちょっと「バブル」もそうそう悪くは無いよというお話を書いてみます。

◆ 街イメージ形成に役立った「バブ建」たち
紺色のピンはバブル期に竣工したもの。それをよーく見てみると、ショッピング、デートの目的地にはわんさか「バブ建」があります。スペイン坂周辺、代官山、外苑前などなど。構想がバブル期のものを入れるとピンクピン、水色ピンも入り「表参道」もその一つと言えます。つまり、バブル期は「最低」「最悪」と言われていますが、現在の渋谷区街イメージ形成に大きく貢献していることが分かります。

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◆ 「バブ建」特徴
一部は例外だけれども、往々にして区境にその子達はいます。
つまり1985年以降、他区との文化混在が始まり「バブ建」達によって「シブヤ」「表参道」「代官山」「恵比寿」のエリアイメージが形成されたとも言えます。
所謂「若者の街。渋谷」は、スペイン坂を中心に、港区との境目には「外苑ブランド」。目黒区との境目には「代官山ブランド」と「恵比寿ブランド」が街イメージ構成に「バブ建」が貢献しています。ちょっと変わり種で行くと、ブランド化に失敗?してしまった「コスモス通り」があります。

◆ 「ビバ渋谷バブ建!」
港区との境目外苑西通りでは、外国人建築家によるワタリウム(マリオ・ボッタ)、隣にサッフォー(北川原温)その先に青山TERRAZZA(竹山聖+アモルフ)が姿を見せ、反対側には寛斎ビル(現堀内カラー)(竹山聖+アモルフ、アトリエミカ)少し離れるとS-LATTICE(ワークショップ)達が「外苑」ブランドを作っています。
目黒区との境目には、代官山ヒルサイドテラスが着々と30年の月日をかけ「代官山」ブランドを確立している。もう一つは、恵比寿ガーデンプレイス(久米設計)。ビール工場跡地に建ったこの施設は、白金へとつながるセレブリティの街というイメージを作っています。

青線  :渋谷区境界
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◆ 「おしい!渋谷バブ建。。。」
ビバ!を連発していてももちろん「おしい(多少贔屓目)」事例も正直ある。。。
それは通称「コスモス通り」。渋谷区、世田谷区、目黒区と3区に股がっているこの道では、若手ディベロッパーの手により、「コスモス通り」と新しく名付けられ、ファッションブランドオフィスを誘致したエリア開発をしようとしました。この時代の後半はバブルの終焉であり、この開発は途中で終わってしまいます。が!当時の建築達は現在も活用されています。アーステクチャーサブ1(高松伸)がその第一号。3区をまたがって5件以上の当時の建築を見ることができるので、是非散歩してみて下さいな。
オレンジ線:コスモス通り
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◆ 「ん?これも渋谷バブ建?」
1968年から建替えが検討され、1998年に設計者決定という流れから、バブ建と言えるかどうかは微妙だけれども、ここ数年では表参道ヒルズが港区の境目で登場。表参道同潤会アパートがつくり出してきたレトロな表参道ブランドは、2002年にLOUIS VUITTON(青木淳)、2003年にDior 表参道(妹島和世+西沢立衛/SANAA)が建ち上がり、2006年の表参道ヒルズ(安藤忠雄)で新たなブランドイメージを生み出しています。

より大きな地図で 表参道エリア 街イメージ形成に役立った「バブ建」たち を表示

このブログが少しは、バブルへのイメージが良くなることをお祈りします。

次回は、「シブヤバブル文化史跡-宴の痕」と題して「シブヤ遺産」(村松伸+東京大学村松研究室 バジリコ出版)内から抜粋して最後を飾ろうと思います!

2010年9月27日月曜日

Googleプレイスに期待すること。 植村写真スタジオ 館長 植村さんに伺いました。

2010 年 9 月 27 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya

本日は、今回のキャンペーンにご協力いただいている、植村写真スタジオ 館長の植村栄一様に Google プレイスについてお話いただきました。
戦後から渋谷の今の場所にかまえる歴史ある写真スタジオで、当時は屋上から原宿駅が見えたとのエピソードも残っているそうです。

それでは、ぜひビデオを御覧ください。

2010年9月26日日曜日

Googleプレイスに期待すること。
ネイルサロン アプレ ラ プリュイ渋谷店 店長 大崎さんに伺いました。

2010 年 9 月 26 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya

本日は、今回のキャンペーンにご協力いただいている、ネイルサロン アプレ ラ プリュイ渋谷店 店長の大崎美由紀様に Google プレイスについてお話いただきました。
店長になって3ヶ月のフレッシュな大崎様。フレッシュで素敵な笑顔にあふれてます。

それでは、ぜひビデオを御覧ください。

2010年9月25日土曜日

発見!消失! 渋谷駅周辺のパブリックアート【2/2】

2010 年 9 月 25 日
Posted by 松本紋 /アートコーディネーター

後編【消失編】

今回は渋谷の喧騒にいつの間にか消えて行ってしまったパブリックアート作品についてです。

皆さんご存知、渋谷QFRONT。渋谷駅から出て、スクランブル交差点をわたった所にある、ビックスクリーンが目印の渋谷駅周辺のシンボル的ビルの一つです。

1999年にできたこのビルの「Q’s Wall-C」と呼ばれるセンター街側のスクリーンに、かつて世界的に著名なアメリカ人現代アーティスト、ジョナサン・ボロフスキー氏の作品が3年ほど展示されていた事をご存知でしょうか。ボロフスキー氏の作品とは人の形をした巨大な彫刻作品が特徴的であり、彼の作品は世界中で見る事ができます。例えば北京のオリンピック公園やトロントのピアソン国際空港などです。日本では、東京オペラシティー内、B1Fのサンクンガーデンにそびえ立つ彫刻「Singing Man」が有名ではないでしょうか。

「Heartlight Man」というその作品は、高さが41m、横幅 11.6mの人の形をした平面作品で、アーティストの心臓の鼓動を録音し、その鼓動の音とそれにあわせ全身の光が点滅するというものでした。

しかし、当時学校帰りに毎日QFRONT前を通り過ぎていたにもかかわらず、私にはこの作品の記憶がありません。中学生だった私にとっては、日本に上陸したばかりであったQFRONT内のスターバックスのコーヒーと友達とのおしゃべりの方が重要だったようです。

さて、この作品の事を人伝てに聞き、なくなってしまった理由を調べてみると、ビルの竣工にあわせて1999年よりQ’s Wall-Cでアート作品を継続的に展示して行く企画、「コンテンポラリー・アート・ショーケース」のスタートを飾る作品として、1999年より継続的に展示替えをされる事を前提に発表された作品であるとの事が判明。企画の2回目以降が実現されなかった理由は判明しませんでしたが、継続的に文化活動を続けて行く事の難しさをぼんやりと実感。。。

ちなみに、今のQ’s Wall-Cには広告が展示してあります。ボロフスキー氏の作品が撤去された2002年以降はQ’s Wall-Cは屋外広告の媒体として利用されているとの事です。

ボロフスキー氏は「Heartlight Man」作品についての自身のコメントで、「渋谷エリアの喧騒は、作品の一部である私の心臓の鼓動をかき消してしまう。」とコメントをされていました。巨大なアート作品ですら、かき消してしまう渋谷の喧騒。それもこの企画がなくなってしまった理由の一つかもしれません。

設置される"場所(プレイス)"と共存する事を目的として創られる、パブリックアート。次回渋谷に行かれる際には、街の喧騒と共存する作品達を探してみるのはいかがですか?



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2010年9月24日金曜日

渋谷駅のうつりかわり [6/6]

2010 年 9 月 24 日
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授

6.渋谷駅はこれからどのようになるのか

東京都と渋谷区は、2008年「渋谷駅街区基盤整備方針」を発表した。そこには、渋谷駅の青図が描かれている。渋谷駅は駅上空をもとめて、他の再開発地区と同じように超高層化されていく。地面から離れた高層部分では一般的な無機質オフィス空間が広がるが、足元において渋谷駅の独自の空間は持続されていくだろう。

■2012年のシナリオ
東急文化会館跡地に現在建設進行中の超高層複合施設ヒカリエが2012年にオープンする。東急文化会館にあったプログラムを現代風にアレンジして超高層ビルの箱内で再構成したものだ。西にマークシティ、東にヒカリエが二大双塔の格好で渋谷駅を形作る。かつて渋谷のシンボルであった東急文化会館屋上プラネタリウムの銀色球体は、このたび文化総合センター大和田(2010年11月にオープン予定)の屋上に移された。
また、2012年には東横線が明治通り下へ地下化し、地宙船にて副都心線と相互直通する。

■大改造計画
2012年以降は、東急線プラットホーム跡地をどうするかが一つの焦点となりそうだ。資本の流れを生み出す源泉である超高層ビルが、東横百貨店(現東館)の解体を利用してそこに建設されるからだ。
新たな超高層ビルの足元では、現在離れて不便である埼京線・湘南新宿ラインのホームを東横線地上ホーム跡地へ持ってくる。銀座線ホームを明治通りと山手線の間に東寄りへ移設する。山手線ホーム上の改札口を全面的に広大な乗り換えコンコースへ建て替える。マンモス歩道橋は、東西広場を越えるペデストリアンデッキへ変貌する。ハチ公口・西口・東口の各広場とバスターミナルを拡大する。
渋谷駅の大改造である。

■中締め
このブログの終わりにあたって、改めて渋谷駅とは何なのだろうか。1885年の発生以来、日々鉄道が走り、人々の流れができ、渋谷駅が形成されてきた。それはサンゴ礁のようなものだ。サンゴ礁とはサンゴの生命活動の結果作られた地形のことだが、私の作業はその地層の一層一層を考察するものである。渋谷駅は、時代時代の要請や欲望を物理的に具現化し、それらが堆積してきた過程の総体である。

渋谷駅の変化のある限りこの文章には実は終わりがないので、ここでいったん中締めということになろうか。今回このブログを書くにあたって様々な方々にお世話になった。この場をお借りして感謝したい。
渋谷駅は終わりのない文章でありつづけてほしい。


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2010年9月23日木曜日

渋谷駅のうつりかわり [5/6]

2010 年 9 月 23 日
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授

5.渋谷駅はどのように生まれ変わったか。

増え続ける東京の人口にともない、渋谷駅利用者の数も留まるところを知らない。地上の空間は所狭しと飽和状態になった。残された空き空間は、地中となる。これまで日々増殖する姿を演じた渋谷駅は、その後、外見の変化を見せず穏やかとなる。しかし、地下において大きく渋谷駅は変わっていった。

■空き空間を求めて―地下へ
利用者の増加で渋谷駅は否応なく輸送手段を変更せざるを得ない。あるいは既存の路線に平行する形で路線を増設する策を取る。
西へ発展していく郊外住宅街という後背地を背負った路面電車ではらちがあかない。玉電は1969年に廃線し、1977年東急新玉川線(現田園都市線)の地下鉄として再整備される。銀座線もパンク状態で、1978年に第二の銀座線である半蔵門線が通る。渋谷駅から半蔵門線がしばらく銀座線と平行して走るのはそのためである。また、新玉川線と半蔵門線は相互直通(相互乗り入れ)運転をする。
最初の渋谷停車場があった場所は貨物の積み下ろしの場として利用されたが、産業構造の変化で貨物利用は終え、その後はしばらく住宅展示場であった。山手線緩和のため渋谷駅から少々南に離れているが1996年埼京線・湘南新宿ラインのプラットフォームができる。
山手線、埼京線に対する混雑緩和に寄与するため2008年東京地下鉄の副都心線が乗り入れる。東京では最後の地下鉄と言われている。渋谷駅東口の地下の新「渋谷駅」には、建築家安藤忠雄が設計した「地宙船」をイメージしたユニークな吹き抜け空間が出来た。

■点から面へ―シブヤ・クロッシング
オリンピック後から、東急と西武を中心に若者をターゲットとしたファッションビジネスが激しさを増し、“ファッション・若者の街”の渋谷イメージを確立する。魅力的な商業ビル(点)が、通り(線)を生み、街(面)になる戦略的手法を取った。情報の発信が渋谷駅ビルという点であったのが、街という面に移っていった。また、それまで渋谷駅が渋谷の谷で最も大きな唯一の建物であったが、周囲の建物が高くなり渋谷駅の建物が街に埋もれていった。商業エリアと駅を結ぶ渋谷駅前交差点は、幾つもの巨大なスクリーンが渋谷駅からの人を迎え、常に人で溢れ返る世界でも有名なシブヤ・クロッシングとなった。

■空へ―超高層化 
2000年に銀座線の車庫と井の頭線の駅施設、ホテルと商業施設を複合化した渋谷マークシティが完成する。他に比べて遅れての超高層化が渋谷駅で始まる。地下の空き空間まで埋め尽くされた渋谷駅は駅上空にその空き地を見つけたことになる。


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2010年9月22日水曜日

Googleプレイスに期待すること。 らーめん はやし 店長 林さんに伺いました。

2010 年 9 月 22 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya

本日は、今回のキャンペーンにご協力いただいている、らーめん はやしの林真剛店長に Google プレイスについてお話いただきました。
実は、Google 社内でも らーめん はやしファンが多く、今回ご出演いただけてスタッフ一同とても嬉しく思います。

それでは、ぜひビデオを御覧ください。


2010年9月21日火曜日

金王八幡宮例大祭レポート

皆さん、こんにちは。Google プレイス 渋谷キャンペーンブログでは、shibuya 1000 のメンバーの方々に寄稿いただき、今まで知られていなかった渋谷に関するお話を紹介しています。
六人目は、昭和女子大学環境デザイン学科 田村研究室4年の吉永有美子様です。

2010年9月21日
Posted by 吉永有美子/昭和女子大学環境デザイン学科 田村研究室4年

9月18日から9月19日にかけて、渋谷では「金王八幡宮例大祭」が行われました。
このお祭りは五穀豊穣・無病息災などを祈願して、900年以上続いている、大変由緒あるお祭りです。数日前から、渋谷の街は紫色の旗で飾られ、センター街からはお囃子が流れており、街中お祭り一色といった雰囲気でした。

このお祭りの一番の見どころは、なんといっても「道玄坂神輿連合渡御」です。
渋谷の十四町会・十二のお神輿が、SHIBUYA109へ集まり、儀式を行うのです。

19日の午後1時過ぎ、SHIBUYA109の前には次々とお神輿が現れはじめました。
軽快な手拍子・掛け声とともに力強く道玄坂を練り歩いていきます。拍子木の「チャチャッ、チャチャッ」という音が渋谷の街に響き渡り、なんとも楽しげ。一緒に手拍子をしている観客の方もいらっしゃいました。


よく見ると、町会ごとに掛け声や担ぎ方が少しずつ違っているのが面白く、女性や外国人の担ぎ手の方を多く見られたのも印象的でした。
それにしても、いくつものお神輿が一斉に担ぎあげられている様はとても迫力がありました。


2時になると、八幡様がSHIBUYA109へおこしになり、儀式がはじまりました。
この時ばかりは騒がしかった渋谷も荘厳な雰囲気に。
歴史を感じた瞬間でした。


かつて、この儀式はかつて毎年9月15日の祝日に開催されていたのですが、現在では平日にあたってしまうということで、現在は第3日曜日に変更しています。また、場所も金王八幡宮で行われていたのですが、交通事情により、お神輿を運べないため、八幡様がSHIBUYA109までお越しになっているそうです。
変化し続ける渋谷で伝統を残していくには様々な苦労が必要なのですね。

しかし、来年はご鎮座920年・金王丸生誕870年・社殿造営400年という節目の年を迎えます。
それを記念して、主催者側は、来年の例大祭は本来の形をとって金王八幡宮でとり行えるようにしたいそうです。

今年お祭りを見逃したという方は、来年行ってみてはいかがでしょうか。
普段とは違った「渋谷」を体験できるチャンスです。


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2010年9月19日日曜日

渋谷猫日記

Google プレイス 渋谷キャンペーンブログでは、shibuya 1000 のメンバーの方々に寄稿いただき、今まで知られていなかった渋谷に関するお話を紹介しています。
五人目は、東京大学生産技術研究所村松研究室の五十嵐悠介様です。

2010 年 9 月 19 日
Posted by 五十嵐悠介 /東京大学生産技術研究所村松研究室 修士2年

「ニーハオ」
「ハロー」
「アンニョン ハシムニカ」
「ナマステ」
「ボンジュール」
「サワッディ」
「ドブリ ディン」
「スラマッ ソレ」
「コンニチワ」
・・・

渋谷で交わされている言葉。
様々な人種が渋谷に魅了され、集まってきます。
しかし、耳を澄ませば、もっと違う言葉が聞こえてくるでしょう。

「カァー、カァー」
「チュー、チュー」
「ワン、ワン」
「ニャー、ニャー」
「ツクツクホーシ」
・・・

かすかにですが、確実に交されている言葉。
渋谷にも様々な種の生物が集まっています。
今回は、その中から猫にスポットを当て、その実態を紹介したいと思います。

センター街の小さな路地にひっそりと暮らす猫がいます。
その名は「ミーちゃん」。
性別は雄。
年齢は不詳。
シゴトは妻利青果食品店の店番。

「ガシャガシャガシャガシャ」
この音で、ミーちゃんの一日が始まります。
ミーちゃんの雇い主である妻利青果食品店店主が店のシャッターを上げる音を聞くとミーちゃんはビルの合間から現れ、店主とその奥さんにペコリとあいさつ。それから、2人が開店の準備をしている間、店の前でじっとその様子をみます。
この間も路地を通る人とコミュニケーションをとり、店のアピールは怠りません。そのうちに奥さんがブランチのしらす干しを用意してくれ、本格的なシゴト前の腹ごしらえ。食事後、腹ごなしに自転車とバイクが乱立する樹海の中を縦横無尽に動き回り、仕事モードに入ります。
ミーちゃんの定位置は店先にある台の上。しばらくの間、店番をしますが、自由気ままなミーちゃんは、シエスタに入ります。お昼寝の場所は、気温によって変え、夏はクーラーの涼しい風の当たる場所。冬は、店の2階の物置に敷いてある布団の中。そして、夕食の時間までずっと休憩です。
今日の夕食は好物の花鰹だけど、一番の好きなのはトウモロコシの葉っぱ。そして、すぐに2度目のシエスタをたっぷりとり、仕事に戻ります。閉店まで店の周辺をウロウロし、最後までお客さんや通行人との交流に努めます。
店主が店仕舞をしている最中、一日の最後の食事をとり、シャッターが閉まると今日のシゴトは終了。店主たちにまたペコリとお辞儀をし、夜の渋谷へと消えていきます。
そして翌朝、シャッターの音とともに出勤し、また、新たな一日を過ごします。


1. 店番をするミーちゃん

2. 開店の準備を眺める


3. コミュニケーションを図る







4. しっかりとお見送り



5. シエスタ中


6. 閉店前の最後のシゴト


今回は、妻利青果食品店で店番をするミーちゃんを取り上げましたが、他にも様々なシゴトをする猫が世界中にいます。和歌山県の駅長「たま」もその一人でしょう。そんな猫たちをもっと知りたい方は渋谷のイメージフォーラムで現在上映中の「ネコを探して」を見てはいかがでしょうか。あなたの知らない猫たちがたくさんいますよ。


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2010年9月18日土曜日

渋谷駅のうつりかわり [4/6]

2010 年 9 月 18 日
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授

4.渋谷駅はどのように巨大になったか-戦中戦後

■カモフラージュ
第二次世界大戦中、上空からの爆撃機の攻撃を避けるため、東横百貨店のホワイトボックスは迷彩柄に彩られた。その後の渋谷駅の増殖過程のなかでそのボックスが埋もれていくのを暗示していたかのようであった。戦災を被り木造家屋や建物は焼けてしまったため、戦災が僅かで済んだ鉄筋コンクリート造の渋谷駅は遠くからでもその威容が望まれた。四角い量塊の足元ではモノを求めて闇市が広がった。1945年ハチ公像は、金属資源の不足から供出され姿を消した。渋谷駅は、戦時中でも毎日運行したようだ。

■増殖
戦争が終わり壊滅した東京は、朝鮮戦争の恩恵を受け、復興の兆しを見せた。1948年にハチ公像が再建された。
五島慶太は、戦後の渋谷駅の東急関連施設の開発計画にパリのル・コルビジェのところで修行した建築家坂倉準三を起用する。五島が計画した銀座線に倣って、坂倉は電車でなく人々が渋谷の谷を横断するように計画した。具体的には連絡橋で駅に接続する各施設を数珠繋ぎにするというもので、次々に建てられていった。1954年3階に銀座線の駅を持つ東急会館(現西館)が完成。竣工当時は日本で一番高い建物で、また大きく湾曲した壁面を持つため話題になった。同年、百貨店間を結ぶ跨線橋が完成。1956年、東横百貨店を増築し、東側の連絡橋完成。1957年、東側に東急文化会館(現在跡地にヒカリエが建設中)が開館。1961年、井ノ頭線の京王ビルと京王線連絡橋が完成。坂倉の死後1970年西口駅ビル(現南館)が完成。その様は、渋谷駅が生き物のように増殖するようであった。
1957年、現在のハチ公前広場にあった闇市は地下化され、現在のシブチカとなった。当時の闇市の雰囲気とも言えなくもない独特な雰囲気を今でも持っている。

■オリンピック
1964年に東京オリンピック開催が決定したことで、一気に東京の都市開発が始まった。代々木体育館などのオリンピックの競技会場や選手村が周辺に出来ることにより、渋谷駅はさらに活気付いた。
1964年のオリンピックに合わせて山手線のプラットフォームが拡張され、南口が完成する。東横線の南口も同時期に出来あがる。南口の上空には首都高速道路が高架となって通った。また、大山街道を利用し渋谷駅から新しく六本木へと道路が建設され246号と名付けられる。
現在の渋谷駅のシルエットを特徴的に形作っている東急線のホーム上の連続するかまぼこ型屋根も1964年に出来た。

明治維新より息継ぎをする間もなく利用客の増加に対応して立体的に発展した渋谷駅は、この後充電期間を向かえ、交通手段の再編成を行う。次回ではこの再編成から現在までについて追う。


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2010年9月17日金曜日

渋谷駅のうつりかわり [3/6]

2010 年 9 月 17 日
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授

3.渋谷駅はどのように巨大になったか-戦前

山手線外回りの渋谷駅改札口の一つに玉川改札口というのがあり、不思議に思う人は多い。玉川とは多摩川の古称で、玉川電鉄(通称、玉電)が1969年までこの改札を出てすぐの同じ階に乗り入れていたからだ。渋谷駅の巨大化はこの玉電から始まる。

■ジャリ電と市電
鉄筋コンクリートは、近代都市を造り出す土木技術の刀であった。砂利は鉄筋コンクリートの重要な構成要素であり、当初は東京近郊の河川敷の砂利を使った。多摩川河川敷もその一つだった。現在の二子玉川周辺から東京への中継点の渋谷駅まで、砂利は1907年鉄道で運ばれ始めた。これが玉電(通称ジャリ電)である。ちょうど山手線が民間の日本鉄道から国有鉄道に買収された(1906年)ころである。
東京市は市電が渋谷駅を終点とするまで西へと拡張してきた(1911年)。1920年には渋谷駅は現位置に移転し山手線は渋谷の谷では盛土をして高架線となる。二代目駅舎は、切妻屋根に時計塔を持つ洒落たスタイルであった。玉電は当初の砂利から人を運ぶようになり、1922年には山手線の盛土にトンネルを造り東京市へと人を運んだ。このトンネルは、現在でもハチ公広場と東横のれん街を繋いでいる。1923年に玉電と市電が接続した。
1923年関東大震災が起き、下町に比べて山手での崩壊が少なかったために生まれた山手信仰とともに東京市の拡張が渋谷駅を乗り越えて西へ西へと住宅街が広がっていった。この発展する公害住宅街を後背地としながら渋谷駅は巨大化していった。

■ホワイトボックス
1925年山手線がやっと環状運転を開始した2年後の1927年、都市プロデューサー五島慶太は渋谷駅に現在の東横線を乗り込ませた。さらに関西の小林一三に学んだ手法で、1934年、地上7階、地下1階、鉄筋コンクリート造のターミナルデパート、東横百貨店(現在の東館)を建てた。スタイルは、装飾をそぎ落とし、純粋な形態で構成し、合理性を追求した、フランス近代建築家ル・コルビジェが確立した当時最先端のモダニズム様式、ホワイトボックスであった。起用した建築家は、銀座和光ビルや日比谷の第一生命ビルを手がけた渡辺仁である。そのホワイトボックスは、渋谷川を跨ぐようにして建ったので当時話題になったが、それは山手の記念碑のように人々の目に映ったであろう。そこには劇場から、デパートの品々から、屋上遊園地まであり、華やかな近代生活が花開いていた。
さらに五島慶太は、1934年現在の銀座線を東横百貨店の3階レベルへと引っ張ってきた。渋谷駅は谷底にあるために青山では地下を走るが、渋谷駅では地下鉄であるはずの銀座線が空中を走ることになる。さらに、車庫を渋谷駅の西側に設置したため、渋谷の谷を高架で横断する形となった。これは、現在でも変わらない姿だ。
同じ年に、地方から東京に職を求めて増えていたサラリーマンの心の支えとなったハチ公像も建立されている。


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2010年9月15日水曜日

ピンステッカーマップ公開します。

2010 年 9 月 15 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya

先週末のうちわ配布では、多くの皆様に手に取っていただき本当にありがとうございました。
渋谷の街では多くのピンを目にすることが出来とても嬉しく思っております。

さて、キャンペーンはこの後 9 月末までこのブログの更新を続けてまいります。
今週末には金王八幡宮様の例大祭もございますので、週明けにはその模様も報告させて頂きたいと思っております。引き続きお付き合い下さい。

ところで、参加頂いているお店にピンステッカーを貼って頂いているのは、以前もお話させていただいたかと思います。そこで、ステッカーを貼っていただいているお店のマップを作成してみました。ご協力いただいた店舗の皆様、本当にありがとうございます。もし、まだ事務局が把握していないお店がございましたら大変申し訳ございません。すぐに反映させていただきますので、お手数ですが事務局までご一報下さい。

是非、ピンのあるお店に行ってみて下さい。

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2010年9月14日火曜日

渋谷銭湯巡り[2/2]

2010年9月11日
Posted by 北見友太/国士舘大学国広研究室

銭湯にはそれぞれ異なる個性をもっている。

渋谷駅を出てセルリアンタワーの裏を歩くと使い古した煙突が見えます。数年前まで文化湯という銭湯が営業していたのです。1965年頃が渋谷区で64軒ほどのピークを向かえて、2010年には16軒ほどまで減少しています。これは渋谷に限らず全国的に減少しています。一家に一台のお風呂の普及が減少の大きな原因の一つです。ほかにも後継者問題や設備の老朽化など様々な問題が重なっているのも事実です。


文化湯の煙突が今も残る。

僕が最初に銭湯に行った時の思い出は3,4歳の頃で、おじいちゃんと手をつなぎながら家の近くにある銭湯に行ってビン牛乳をグイっと飲んだ時の思い出があります。そこの煙突からは煙がでていたのを覚えています。煙突から煙が出ていると、おっ、、今日はやっているな。という合図でもあったわけです。現在はガスでお湯を沸かしているため、煙が出ることはなく役目を終えています。

営業している銭湯は工夫をし、それぞれ個性のある銭湯へと変わっています。たとえば、子供達に長く銭湯にいてもらいたいという番頭さんの願いから、ロビーに漫画がいっぱいに置かれている銭湯。代々木公園へマラソンをする人々へロッカーを貸し出していてる銭湯。浴槽以外に露天風呂があり、都会の空を味わえる銭湯。今も変わらずお湯が熱い銭湯などなど。街によって銭湯の浸かり方が違います。


漫画天国 羽衣湯

最近の家庭でのお風呂事情によると、湯船に浸からずシャワーだけという人は多くなってきているそうです。特に一人暮らしをしている20代前後の若い人は仕事から帰ってくるとすぐ眠ってしまい、お風呂は朝入る方もいるそうです。お風呂は一日の疲れを摂る癒しの場。そう考えればお風呂に入る気持ちも変わります。月に一度でもいいので銭湯によってみてください。ハマってしまいます。

ではでは僕はこれから銭湯へ、、、読んでくださった方とどこかの銭湯でお会いできることを楽しみにしています。

2010年9月13日月曜日

渋谷銭湯巡り[1/2]

皆さん、こんにちは。Google プレイス 渋谷キャンペーンブログでは、、shibuya 1000 のメンバーの方々に寄稿いただき、今まで知られていなかった渋谷に関するお話を紹介しています。
四人目は、国士舘大学国広研究室の北見友太様です。

2010年9月10日
Posted by 北見友太/国士舘大学国広研究室

渋谷に銭湯があることを知っていますか?

渋谷に行くとみなさんは何をしますか?流行な服を買いに買い物をしますか?友達と歌いにカラオケに行きますか?そこに行く途中、ちょっと空を見上げてみてください。ビルとビルの間に煙突が隠れているのがわかります。街の中にひっそりと存在してる神社のような造りに似ている建物が銭湯なのです。


現在渋谷区では渋谷、恵比寿、広尾、千駄ヶ谷、南新宿、西新宿5丁目、初台、幡ヶ谷、笹塚、代々木八幡、代々木上原の各駅合わせて16カ所の銭湯が営業しています。どの銭湯も各駅から徒歩数分の場所にあり、60年前から姿を変えず存在している銭湯や、街のニーズに合わせて改装した銭湯もあります。

「今の家にはほとんどお風呂が付いているから、お風呂は家で入るよ」なんて言う人もいるかもしれません。銭湯の商売道具はお湯。お風呂に入りにくる湯客に最高のお湯を用意しているのです。家で味わえるお風呂とはひと味もふた味も違います。10メートル以上の天井や体を大の字にして入る浴室の解放感などがあり、熱いお湯に入ると極楽極楽~♪とつい口ずさんでしまうかもしれません。

東京の銭湯は一律で450円になっています。こんな暑い日だからこそ渋谷に来る方は、ご飯を食べる前、家に帰る前にひとっ風呂浴びて一日をリセットする生活も悪くはないのでは?もしかしたら、そこで知り合う人々と仲良くなり、一緒にご飯を食べに行く、、、なんてことが起こるかもしれません。


渋谷銭湯マップ by 渋谷浴場組合×shibuya1000×国士舘大学国広研究室

より大きな地図で 渋谷銭湯マップ を表示

2010年9月12日日曜日

渋谷でうちわを配布しています。

2010 年 9 月 12 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Negoro

9 月 11 日、12 日は、渋谷駅周辺及び 109 ビル前にて、ピン型のうちわを配布しています。11 時から 19 時くらいまでです。本日日曜日が、うちわ配布の最終日です。ぜひ、ご興味のある方は渋谷に立ち寄ってみてください。



2010年9月10日金曜日

発見!消失! 渋谷駅周辺のパブリックアート【1/2】

皆さん、こんにちは。Google プレイス 渋谷キャンペーンブログでは、shibuya 1000 のメンバーの方々に寄稿いただき、今まで知られていなかった渋谷に関するお話を紹介しています。
三人目は、アートコーディネーター松本紋様です。

2010年9月10日
Posted by 松本紋/アートコーディネーター

前編【発見編】

「パブリックアート」とは、「public=公共 art=芸術」、美術館やギャラリーではなく、道路や公園など街(公共の場所)に設置をされているアート作品の事を指します。

上記の説明では何のことだかピンとこない方も、子供の城の前にある岡本太郎さんの彫刻作品「こどもの樹」や、「忠犬ハチ公」「モヤイ像」に、「ホープくん」がパブリックアートですと言われるとすぐにお分かりになるのではないでしょうか。

ただ、渋谷駅を最寄り駅とする学校に6年間通っていた私でも、上記の4つぐらいで「パブリックアートいくつ思いだせるかなゲーム」が止まってしまいます。(私の当時の学友達も同じような有様です。)

これは困った(ブログが書けないから)と実際に渋谷の街に繰り出してみると、なんのその、他にもアート作品が沢山あるではないですか!

例えば駅構内。井の頭線構内の2つの壁画作品「明日の神話」「Bright Time」。
そして副都心線構内の「きらきら渋谷」に、新駅にもちらほら。。

次に一歩足を進めてハチ公前広場だけでも4つ。忠犬ハチ公像に加えて、マンホールの蓋のアート、交番の横の壁画、スクランブル交差点の手前の地球のうえにあそぶこどもたちの像。

さらに109方向に向かう道玄坂を進めば、街路樹にそって彫刻作品が約50メートル間隔にあるし、地下鉄入り口のアーチを加えれば、アート作品が芋づる式に出てくる出てくる。

「公共の場所で鑑賞される」とパブリックアートの定義を広げれば、渋谷の駅周辺で行われたパフォーマンス作品もたくさんあります。(アーティスト集団Chim↑Pomの作品「スーパー☆ラット」など)

写真は渋谷のマンホールアートです。(※ 地図の中で赤いピンの所で像を囲うように密集して4つあります。)
(ちなみに7月にニューヨークで開催された、New York Book Festivalで日本在住のオーストラリア人デザイナー/写真家のReme Camerota氏による日本のマンホールを撮影した写真集「DRAINSPOTTING」がBest Art Photo Book 賞に選ばれたとの事)

さて、こんなにもアートであふれているのに「渋谷のパブリックアート」というキーワードでパッと思いつくアートがあまり無かった理由は簡単です。店頭にせり出したお店のデコレーションや電光掲示板に屋外広告、たくさんのヒトとモノに溢れていて、どれがアート作品なのかわからないのも当然かもしれません。
街の変容にあわせてどんどん増えていったアート作品やそれを取り巻く環境が過剰すぎて作品個々についての記憶が残りにくくなっています。

受け身の鑑賞だけではなく街の一部として人々と相互的に機能するものがパブリックアートです。
次回渋谷に行かれる際には、街のざわめきのかげに隠れてしまっているアートを探して、街を歩いてみてください!
ランドマークになるアート作品を見るだけではなく、隠れた作品を探索すのにも渋谷駅周辺はもってこいの場所なのです。

今回出てきたパブリックアートをgoogle mapに落としました。
これは一つ一つ地図に落としていきましたが、携帯やカメラのGPS機能を使えば、自分が発見したアート作品を写真に撮り、容易にgoogle mapでオリジナルのアートマップを作成し、ウェブ上で共有できるとの事です。

より大きな地図で 発見!消失! 渋谷駅周辺のパブリックアート 前編【発見編】 を表示

次回は【消失編】と題して、渋谷から消えていった/一時的なパブリックアート作品の紹介です。

渋谷にピン型うちわあります。

2010 年 9 月 10 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya

今週の9月6日月曜日から、田園都市線改札付近、及び東急東横線ホームでGoogleマップのポスター上にピン型うちわを貼り付けたポスターを公開中です。うちわは取れるようになっているので見かけたら是非剥してお持ち帰り下さい。160店舗様分の店舗様名入りのうちわになっているので、好きなお店のうちわを探して頂くのも楽しいかと思います。

次のスライドショーは、ポスターを設置する時の様子です。この様に一枚一枚お店の実際の場所を確認しながら張っています。






また、今週末の11日(土)、12日(日)には、渋谷駅周辺及び109前にて、うちわの配布も行います。皆様渋谷にいらっしゃった際には是非お立ち寄り下さい。

2010年9月9日木曜日

渋谷バブル建築の変遷 [2/4]

2010 年 9 月 9 日
Posted by 辻香 /東京大学生産技術研究所村松研究室協力研究員

第二回となる今回は、バブル期にまつわるストリートネタを書くにあたって、どうしても忘れたくない「ホコ天」ネタをまず書いておこうと思う。

代々木国立屋内総合競技場

渋谷名建築と言えば、丹下健三先生代表格「代々木国立屋内総合競技場」。私にとってあの場所の思い出と言えば「ホコ天」(歩行者天国)である。
1980年以降に産まれている人たちは、なんとなく知ってる~というレベルだろうが、これだけはどうしても外せない。



1980年代原宿駅を降り代々木国立屋内総合競技場へ向かうと、無数の円陣を組んだ人々が歩行者天国を埋め尽くし、大音量の音楽と人びとの歓声が聞こえてくる。
通称「竹の子族」と言われるディスコダンスに興じるもの達の集まりで、ホコ天文化の幕開けだった。
場所は代々木公園脇東京都道413号。(※上の地図での青い線の部分)
80年~90年代、2000人以上の竹の子族がライブパフォーマンスを繰り広げ、その後のロックバンドブームの基礎を作っていた。このホコ天出身で現在有名になった人も大勢いる。
当時海外から来た人たちは東京タワーよりも、TAKENOKOZOKUを見たがっていたが勿体ない。。。
そして、これらの竹の子族の写真の背景には大体、丹下大先生の「代々木国立屋内総合競技場」が写っている。笑

このホコ天は2001年9月1日にまことに残念だが廃止されてしまった。

その後1990年代くらいからは渋谷区、港区・目黒区・世田谷区との境目の道(ストリート)にバブル建築の姿が見え始めます。
つまり他区との文化混在が始まり、「道(ストリート)」による「シブヤ」「青山」「恵比寿」「代官山」「広尾」「原宿」エリアイメージが形成され始めたのがこの頃。エリアブランディングが率先的に行われた。
次回は9月28日になりますが、2回に分けて、ちゃんとバブル建築を元にストリートネタを書きたいと思います。

2010年9月8日水曜日

渋谷バブル建築の変遷 [1/4]

皆さん、こんにちは。Google プレイス 渋谷キャンペーンブログでは、shibuya 1000 のメンバーの方々に寄稿いただき、今まで知られていなかった渋谷に関するお話を紹介しています。
お二人目は、東京大学生産技術研究所村松研究室協力研究員 辻香様です。

2010 年 9 月 8 日
Posted by 辻香 /東京大学生産技術研究所村松研究室協力研究員

1959年東京では、1964年開催の第18回夏期オリンピックを圧倒的な投票数を得て東京開催を決めました。
ここ渋谷の都市形成には、このオリンピックが大きな影響があったことはみなさんご存知かと思います。ただ、漠然とイメージはしつつも、それがどんな感じだったかというのは実感が湧かないかと思います。
そこで!みなさんが使う施設=建築=プレイスを中心にどんな風に渋谷は変わって来たかをblogを通じてお届け出来れば、これ幸いということで始めてみようと思います。ちなみに建築セレクトは、筆者辻が1990年くらいから街歩きをしている中で記憶に鮮明に残っているものであり、全てを網羅しているわけではありませんので、ご注意を。
また「渋谷」は渋谷区を範囲にしています。


1.渋谷バブル建築の変遷


より大きな地図で 渋谷バブル建築の変遷 を表示

この地図の製作にあたっては、東京大学生産技術研究所村松伸研究室のご協力を頂きました。


少し俯瞰して、109個のピンの配置を見てみるとあることに気付く。
1950年から主に明治通りを中心に、その後徐々に表参道やコスモス通り、代官山鉢山町裏通りなどに「道=ストリート」が形成されてきています。
次回以降は、渋谷カルチャーを形成する「ストリート」に視点を落とし、そこでの活動と変遷を、建築を通じて書いてみようと思います!

まず第1回目になる今回は、オリンピック以前1950年からスタートし、現在までを全体的に見てみようと思います。

※各時期の前に書いてあるピンの色は上のマップと対応しています。
◆青ピンーバブル礎期(1950〜1984)34年で26軒
1964年までは駅周辺の住宅、文化施設、生活密着型の建築が整備され、1964年にはオリンピック用の体育館が整備されます。その後は初のデザイナーズマンション、ビラシリーズが建設され、ギャラリー、ホテルなど、文化香る渋谷の形成がなされていきます。代官山ヒルサイドテラスの計画が始まったのもこの頃。

◆紺ピンーバブル期(1985〜1993)8年で42軒
この頃から高度経済成長が訪れ、音楽、映画を基軸にした建築や、民間が自分の主張を象徴する様な建築、公共の実験的な建築などが大量に建ち始めます。
この時期の建築は、一部解体されたものも多く含まれ、また勢いに乗って開発をしようとし、金銭の工面がうまく行かず途中で止まり、その残像を見ることが出来るものも多く含まれています。
ほぼ青ピンと紺ピンにより、つまり1993年までの建築群によりこの都市形成がなされたということは言うまでも無く、また読者の皆様にとっても、身近な施設が多いかと思います。主にファッション、音楽、映画に特化したものが多いかな。

◆ ピンクピンーバブル崩壊期(1994-1997)3年で4軒
代官山エリアにいたわたしは、悠長に西郷山公園でランチをしながらカラート7(71)を見て、こんなことやっちゃっていいんだ〜くらいのノリで傍観し、バブル崩壊を肌で感じることは、ここ渋谷では無かった。

◆水色ピンーバブル余韻期(1998−2004)6年で26軒
この時期までに、じっくり仕込みをされていたのが、表参道同潤会アパートと代官山同潤会アパート。この時期はバブルの余韻により建設されたものもあるが、主にこの二つは、都市にまた新たな息吹を与える計画となっていると思う。
富ヶ谷エリアでは住宅が増え(住宅はプロットしていません)、1964年のオリンピックで盛り上がった体育館周辺には、SHIBUYA-AXなども建設され、新たな文化発信が始まります。

ここ「渋谷」はバブル崩壊による危機を感じることが無く、常に都市の更新が行われていた様に感じます。そしてその後、2005年からは、一般的にはバブル反省期に入り、リノベーション,コンバージョン期を向かえる訳ですが、やはりここ渋谷では大きくその影響があった訳ではなく、新築で新たなストリートを創り出す建築も建っています。

最後に、2008年。オリンピックに合わせて整備されて来たインフラストラクチャーは、時代の変化(ライフスタイルの変化)と施設の老朽化から、駅や道路、駅前周辺の改修、改善計画が始まっています。
駅の変遷を書いている田村先生のblogを熟読あれ。

2010年9月7日火曜日

渋谷駅のうつりかわり [2/6]

2010 年 9 月 6 日
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授

2.渋谷駅はどのように生まれたか


より大きな地図で 2.渋谷駅の発生 を表示

渋谷川と宇田川
宇田川町には川があったと言うと驚く人が多い。唱歌「春の小川」のモデルと言われる宇田川は、現在も暗渠となって流れている。暗渠とはふたをされた水路のことで、キャットストリートも渋谷川の暗渠のふたである。のんべえ横丁の奥で、北から南へと抜ける渋谷川と宇田川は合流する。キャットストリート、宮下公園、のんべえ横丁、渋谷駅まで暗渠で、渋谷川は稲荷橋からやっと顔を出す。かつてののどかな流れのあった川が、現在では情報や若者の流れの場所となっている。

谷と橋
この渋谷川と宇田川が何万年と時をかけて武蔵野台地を削って出来あがったのが、渋谷の谷状の地形である。谷底は、渋谷川が流れ、沼のようによどみ、樹木を茂らせて鬱蒼としていたようだ。縄文時代から、豊富な水源のためにすでに多くの人々が住んでいたらしく、鎌倉時代には、いくつもある鎌倉街道の一つが谷越えのため渋谷川を渡った。これが江戸時代に往来の多かった大山街道の前身である。渋谷川をまたいだ宮益橋を境に、宮益坂と道玄坂ができた。昔は富士山が見えたので、宮益坂を富士見坂とも言った。たまりをつくる「谷」地形と場所を通過しようとする谷越えの「橋」は、渋谷駅の移り変わりを捉えるときのキーワードである。

生糸と渋谷駅の発生
ペリーが来航したころ、渋谷は江戸近郊の農村地帯であった。明治維新の近代化=西洋化の二本柱の一つである殖産興業の政策として、明治政府は絹(生糸)を輸出品とした。集積センターであった前橋から横浜港へ輸送するため、当時日本にほとんどまだ無かった鉄道を引くこととなる。建設時間とコスト面から東京市の市街地を迂回するバイパスが計画され、東京市の西のエッジにあった渋谷を通ることとなった。のどかな渋谷の田園の広がりの中、汽車が走った。これが現在の山手線の赤羽―品川間であり、大山街道との交点で1885年に生まれたのが渋谷停車場である。渋谷駅の発生は、全くの偶然であった。

渋谷停車場は町裏に
騒音を立てながら黒い煙を出す汽車は当時の人々に嫌われ、人々の利用ではなく貨物のためであったためか、現在の渋谷駅から南に300メートルほど離れた町の裏の位置に渋谷停車場は設置された。この停車場は、木造平屋建てで小さなもので、開業当日の乗降者数はなく、本数も一日3本だった。現在の渋谷駅からはとても想像もつかない。

次回は、渋谷駅がどのように発展していったかを追います。

2010年9月6日月曜日

渋谷駅のうつりかわり [1/6]

皆さん、こんにちは。Google プレイス 渋谷キャンペーンブログでは、shibuya 1000 のメンバーの方々に寄稿いただき、今まで知られていなかった渋谷に関するお話を紹介していきます。一人目は、昭和女子大学 生活科学部 環境デザイン学科 准教授の田村圭介様です。

2010 年 9 月 6 日
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授

これから渋谷駅のうつりかわりについて5回使って書きます。今回は渋谷駅の特徴について、残りの4回では渋谷駅の発生から始まり、2050年まで描かれているシナリオについて書こうと思います。日本の近代化とともに現在まで125年歩んできた渋谷駅は、どのように変化してきたのでしょうか。


1.渋谷駅とは何か。


より大きな地図で 渋谷駅のうつりかわり [ 1. 渋谷駅とは何か。] を表示

渋谷駅で迷われた体験はどの方もお持ちでしょう。いつも問題なく利用している駅なのに、迷ったときには突然渋谷駅が巨大な立体迷路に見えたのではないでしょうか。「分かりにくい。」「ゴミゴミしている。」「不便である。」など、渋谷駅に見られるイメージはあまりよくありません。

渋谷駅の一日乗降者数は、約240万人(新宿駅、池袋駅に次いで3番目)です。フランスのパリの人口が約220万人、愛知県名古屋市の人口が約230万人なので、その多さは分かると思います。東京都の人口が約1250万人なので、東京都人口の約五分の一に値する乗降者数が渋谷駅を毎日利用しているのです。

渋谷駅には9本の鉄道路線が乗り入れしています。それらは、山手線、埼京線、湘南新宿ライン、東横線、田園都市線、銀座線、半蔵門線、副都心線、井の頭線です。9鉄道路線あるということは、全部で72通り(9路線×8路線×2通り)の電車の乗り換え方法があるということになります。実際には、相互直通や同じプラットフォームの使用などがあるので72ルートも駅内に確保されていませんが、渋谷駅はその乗り換えが可能なようにできています。

また、渋谷駅を複雑にしている理由のもう一つにその空間構成があります。同じ巨大ターミナル駅でも新宿駅、池袋駅はホームが平行に並んでいるため、空間の把握が比較的容易ですが、渋谷駅の場合はホームが交差していて、それが立体的に絡み合っています。つまり、ホームの配置がイレギュラーで、連絡通路や階段が多いのです。

以上の3点、240万人の一日乗降者数、9鉄道路線の乗り入れ、交差型立体的空間構成を見れば、渋谷駅が混雑して不便であると思われても無理もありません。それでは、この渋谷駅はどのようにできたのでしょうか。突然240万人が利用できる駅ができたわけではありません。時代時代の要請に応じて改良工事を繰り返し、駅を更新してきた結果が現在のハリボテのような渋谷駅の姿です。

残りの4回ではこの渋谷駅の更新履歴をその発生から追っていきます。

在りし日の渋谷東急文化会館の裏から渋谷駅を望む

2010年9月3日金曜日

Googleプレイスに期待すること。shibuya1000 川添さんに伺いました。

2010 年 9 月 3 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya

本日は、shibuya1000代表幹事 川添善行さんにGoogleプレイスに期待することを話して頂きました。
shibuya 1000は、渋谷駅を中心に1000という数字をキーワードに、渋谷の魅力を発見し発信できる人と協同した都市展を手掛ける非営利団体です。
川添善行さんは、そのshibuya 1000の代表幹事をされている方で、東京大学大学院工学系研究科 社会基盤学専攻助教でいらっしゃいます。
それでは、ビデオをご覧ください。

2010年9月2日木曜日

プレイススマイルギャラリー@渋谷

2010 年 9 月 1 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya

今年の夏は観測史上113年で一番の猛暑といわれていますが、そんななか、ピンステッカー配布隊の励みになっているのが、お届けしたお店の方々の素敵な笑顔です。今日のブログでは、そんな皆様の笑顔をご紹介したいと思います。

SOMA CAFE 田中様
和献洋彩 にんにん 渋谷店 倉田様
鳥金 加藤様
FLUffy 奥村様
スパイスキッチン 魚THEユニバース 柴田様
串徳 三串様
PARADISE MACAU ボブ様
ヤマハミュージックアベニュー 渋谷道玄坂 桑田様、森口様
ショットバー チアーズ 佐野様
ほるもん倶楽部 あじくら アミラ様
てやん亭” 渋谷店 オオタ様
 これからも、皆様の喜ぶ顔を励みに配布していきたいと思います。
どうぞ、よろしくお願い致します。

2010年9月1日水曜日

渋谷駅のポスターが変わりました。

2010 年 9月 1 日
Posted by Google プレイス 渋谷キャンペーン事務局 Hisaya

みなさん今週の月曜日8月30日から、渋谷駅のポスターが変わったのに気が付きましたか?
今度は東急田園都市線の改札付近に、迫力のある巨大な赤いピンの登場です。
場所を変えての新しいビジュアル、皆様是非ご覧下さい。


始まってあっという間に1週間が過ぎた今回のキャンペーン、皆様グーグルプレイスご利用頂いてますか?検索時にちょっと場所(プレイス)を追加することで、新しい見え方がするこのサービス。
皆様是非、いろいろと場所を追加して検索してみて下さい。