2010年9月18日土曜日

渋谷駅のうつりかわり [4/6]

2010 年 9 月 18 日
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授

4.渋谷駅はどのように巨大になったか-戦中戦後

■カモフラージュ
第二次世界大戦中、上空からの爆撃機の攻撃を避けるため、東横百貨店のホワイトボックスは迷彩柄に彩られた。その後の渋谷駅の増殖過程のなかでそのボックスが埋もれていくのを暗示していたかのようであった。戦災を被り木造家屋や建物は焼けてしまったため、戦災が僅かで済んだ鉄筋コンクリート造の渋谷駅は遠くからでもその威容が望まれた。四角い量塊の足元ではモノを求めて闇市が広がった。1945年ハチ公像は、金属資源の不足から供出され姿を消した。渋谷駅は、戦時中でも毎日運行したようだ。

■増殖
戦争が終わり壊滅した東京は、朝鮮戦争の恩恵を受け、復興の兆しを見せた。1948年にハチ公像が再建された。
五島慶太は、戦後の渋谷駅の東急関連施設の開発計画にパリのル・コルビジェのところで修行した建築家坂倉準三を起用する。五島が計画した銀座線に倣って、坂倉は電車でなく人々が渋谷の谷を横断するように計画した。具体的には連絡橋で駅に接続する各施設を数珠繋ぎにするというもので、次々に建てられていった。1954年3階に銀座線の駅を持つ東急会館(現西館)が完成。竣工当時は日本で一番高い建物で、また大きく湾曲した壁面を持つため話題になった。同年、百貨店間を結ぶ跨線橋が完成。1956年、東横百貨店を増築し、東側の連絡橋完成。1957年、東側に東急文化会館(現在跡地にヒカリエが建設中)が開館。1961年、井ノ頭線の京王ビルと京王線連絡橋が完成。坂倉の死後1970年西口駅ビル(現南館)が完成。その様は、渋谷駅が生き物のように増殖するようであった。
1957年、現在のハチ公前広場にあった闇市は地下化され、現在のシブチカとなった。当時の闇市の雰囲気とも言えなくもない独特な雰囲気を今でも持っている。

■オリンピック
1964年に東京オリンピック開催が決定したことで、一気に東京の都市開発が始まった。代々木体育館などのオリンピックの競技会場や選手村が周辺に出来ることにより、渋谷駅はさらに活気付いた。
1964年のオリンピックに合わせて山手線のプラットフォームが拡張され、南口が完成する。東横線の南口も同時期に出来あがる。南口の上空には首都高速道路が高架となって通った。また、大山街道を利用し渋谷駅から新しく六本木へと道路が建設され246号と名付けられる。
現在の渋谷駅のシルエットを特徴的に形作っている東急線のホーム上の連続するかまぼこ型屋根も1964年に出来た。

明治維新より息継ぎをする間もなく利用客の増加に対応して立体的に発展した渋谷駅は、この後充電期間を向かえ、交通手段の再編成を行う。次回ではこの再編成から現在までについて追う。


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