2010年9月7日火曜日

渋谷駅のうつりかわり [2/6]

2010 年 9 月 6 日
Posted by 田村圭介 /昭和女子大学環境デザイン学科准教授

2.渋谷駅はどのように生まれたか


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渋谷川と宇田川
宇田川町には川があったと言うと驚く人が多い。唱歌「春の小川」のモデルと言われる宇田川は、現在も暗渠となって流れている。暗渠とはふたをされた水路のことで、キャットストリートも渋谷川の暗渠のふたである。のんべえ横丁の奥で、北から南へと抜ける渋谷川と宇田川は合流する。キャットストリート、宮下公園、のんべえ横丁、渋谷駅まで暗渠で、渋谷川は稲荷橋からやっと顔を出す。かつてののどかな流れのあった川が、現在では情報や若者の流れの場所となっている。

谷と橋
この渋谷川と宇田川が何万年と時をかけて武蔵野台地を削って出来あがったのが、渋谷の谷状の地形である。谷底は、渋谷川が流れ、沼のようによどみ、樹木を茂らせて鬱蒼としていたようだ。縄文時代から、豊富な水源のためにすでに多くの人々が住んでいたらしく、鎌倉時代には、いくつもある鎌倉街道の一つが谷越えのため渋谷川を渡った。これが江戸時代に往来の多かった大山街道の前身である。渋谷川をまたいだ宮益橋を境に、宮益坂と道玄坂ができた。昔は富士山が見えたので、宮益坂を富士見坂とも言った。たまりをつくる「谷」地形と場所を通過しようとする谷越えの「橋」は、渋谷駅の移り変わりを捉えるときのキーワードである。

生糸と渋谷駅の発生
ペリーが来航したころ、渋谷は江戸近郊の農村地帯であった。明治維新の近代化=西洋化の二本柱の一つである殖産興業の政策として、明治政府は絹(生糸)を輸出品とした。集積センターであった前橋から横浜港へ輸送するため、当時日本にほとんどまだ無かった鉄道を引くこととなる。建設時間とコスト面から東京市の市街地を迂回するバイパスが計画され、東京市の西のエッジにあった渋谷を通ることとなった。のどかな渋谷の田園の広がりの中、汽車が走った。これが現在の山手線の赤羽―品川間であり、大山街道との交点で1885年に生まれたのが渋谷停車場である。渋谷駅の発生は、全くの偶然であった。

渋谷停車場は町裏に
騒音を立てながら黒い煙を出す汽車は当時の人々に嫌われ、人々の利用ではなく貨物のためであったためか、現在の渋谷駅から南に300メートルほど離れた町の裏の位置に渋谷停車場は設置された。この停車場は、木造平屋建てで小さなもので、開業当日の乗降者数はなく、本数も一日3本だった。現在の渋谷駅からはとても想像もつかない。

次回は、渋谷駅がどのように発展していったかを追います。

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