2010年9月8日水曜日

渋谷バブル建築の変遷 [1/4]

皆さん、こんにちは。Google プレイス 渋谷キャンペーンブログでは、shibuya 1000 のメンバーの方々に寄稿いただき、今まで知られていなかった渋谷に関するお話を紹介しています。
お二人目は、東京大学生産技術研究所村松研究室協力研究員 辻香様です。

2010 年 9 月 8 日
Posted by 辻香 /東京大学生産技術研究所村松研究室協力研究員

1959年東京では、1964年開催の第18回夏期オリンピックを圧倒的な投票数を得て東京開催を決めました。
ここ渋谷の都市形成には、このオリンピックが大きな影響があったことはみなさんご存知かと思います。ただ、漠然とイメージはしつつも、それがどんな感じだったかというのは実感が湧かないかと思います。
そこで!みなさんが使う施設=建築=プレイスを中心にどんな風に渋谷は変わって来たかをblogを通じてお届け出来れば、これ幸いということで始めてみようと思います。ちなみに建築セレクトは、筆者辻が1990年くらいから街歩きをしている中で記憶に鮮明に残っているものであり、全てを網羅しているわけではありませんので、ご注意を。
また「渋谷」は渋谷区を範囲にしています。


1.渋谷バブル建築の変遷


より大きな地図で 渋谷バブル建築の変遷 を表示

この地図の製作にあたっては、東京大学生産技術研究所村松伸研究室のご協力を頂きました。


少し俯瞰して、109個のピンの配置を見てみるとあることに気付く。
1950年から主に明治通りを中心に、その後徐々に表参道やコスモス通り、代官山鉢山町裏通りなどに「道=ストリート」が形成されてきています。
次回以降は、渋谷カルチャーを形成する「ストリート」に視点を落とし、そこでの活動と変遷を、建築を通じて書いてみようと思います!

まず第1回目になる今回は、オリンピック以前1950年からスタートし、現在までを全体的に見てみようと思います。

※各時期の前に書いてあるピンの色は上のマップと対応しています。
◆青ピンーバブル礎期(1950〜1984)34年で26軒
1964年までは駅周辺の住宅、文化施設、生活密着型の建築が整備され、1964年にはオリンピック用の体育館が整備されます。その後は初のデザイナーズマンション、ビラシリーズが建設され、ギャラリー、ホテルなど、文化香る渋谷の形成がなされていきます。代官山ヒルサイドテラスの計画が始まったのもこの頃。

◆紺ピンーバブル期(1985〜1993)8年で42軒
この頃から高度経済成長が訪れ、音楽、映画を基軸にした建築や、民間が自分の主張を象徴する様な建築、公共の実験的な建築などが大量に建ち始めます。
この時期の建築は、一部解体されたものも多く含まれ、また勢いに乗って開発をしようとし、金銭の工面がうまく行かず途中で止まり、その残像を見ることが出来るものも多く含まれています。
ほぼ青ピンと紺ピンにより、つまり1993年までの建築群によりこの都市形成がなされたということは言うまでも無く、また読者の皆様にとっても、身近な施設が多いかと思います。主にファッション、音楽、映画に特化したものが多いかな。

◆ ピンクピンーバブル崩壊期(1994-1997)3年で4軒
代官山エリアにいたわたしは、悠長に西郷山公園でランチをしながらカラート7(71)を見て、こんなことやっちゃっていいんだ〜くらいのノリで傍観し、バブル崩壊を肌で感じることは、ここ渋谷では無かった。

◆水色ピンーバブル余韻期(1998−2004)6年で26軒
この時期までに、じっくり仕込みをされていたのが、表参道同潤会アパートと代官山同潤会アパート。この時期はバブルの余韻により建設されたものもあるが、主にこの二つは、都市にまた新たな息吹を与える計画となっていると思う。
富ヶ谷エリアでは住宅が増え(住宅はプロットしていません)、1964年のオリンピックで盛り上がった体育館周辺には、SHIBUYA-AXなども建設され、新たな文化発信が始まります。

ここ「渋谷」はバブル崩壊による危機を感じることが無く、常に都市の更新が行われていた様に感じます。そしてその後、2005年からは、一般的にはバブル反省期に入り、リノベーション,コンバージョン期を向かえる訳ですが、やはりここ渋谷では大きくその影響があった訳ではなく、新築で新たなストリートを創り出す建築も建っています。

最後に、2008年。オリンピックに合わせて整備されて来たインフラストラクチャーは、時代の変化(ライフスタイルの変化)と施設の老朽化から、駅や道路、駅前周辺の改修、改善計画が始まっています。
駅の変遷を書いている田村先生のblogを熟読あれ。

0 件のコメント:

コメントを投稿